[内容]
北朝鮮の拉致被害者である蓮池氏が、日本に帰国する迄の24年間を綴った手記。
[感想]
本書は帰国10年後の2012年に出版され、北朝鮮での待遇と暮らしの様子、その
時々の思いと葛藤、垣間見た北朝鮮の人々の生活や国の動向が語られている。
しかし他の拉致被害者についての記述は全く無く、市民運動家の中には「もっと
多くの事を知ってる筈。それを明らかにすべきだ。」と非難する人もいたが、そ
れに対して蓮池氏(以下“氏”)は知人に「自分が余計なことを喋ったために生きてい
る被害者が殺されたらどうするのか。」と、気持ちを打ち明けている。
いずれにせよ、謎に包まれていた拉致被害者の生活と、北朝鮮の人々の生活や思
惑が書かれた本書は貴重な記録であり、読みごたえがあった。
1978年7月。大学生だった氏は、故郷新潟県の海辺で恋人(現妻)と共に北朝鮮の工
作員に拉致された。
北朝鮮に来た当初は監禁状態だったが、その後はほぼ全ての期間“招待所”で軟禁
生活となり、拉致された1年9か月後には、離ればなれとなっていた恋人と結婚。
2人の子にも恵まれた。 ※招待所=警備隊と鉄条網によって閉ざされた隔離施設。
北朝鮮では、早々に色々な形での思想教育の洗礼を受けたが「食うに困るような
ことは無かった」という。招待所では関連資料翻訳の仕事に携わっており、検閲
入りではあるが本やラジオなどからも、国内外の情報を得ることが出来ていた。
子供を寄宿舎がある学校に通わせ、たまに国内旅行に出かけたりと、意外にも想
像していた悲惨さは感じられない。しかし毎日日記をつけることを義務付けられ、
結婚後は“生活総括”で思想チェックされる日々だったのを見ると、やはり囚人の
よう。 ※生活総括=自らの1週間をノートに整理して指導員に発表。
生き抜くために我が子には、自分達は在日朝鮮人だったと嘘をつき通し、この国
に利用されることのないよう、日本語も教えなかったという。
80年代まではまだ良かったが、ソ連など東欧社会主義国家がドミノ現象的に崩壊
して、90年代には状況が一変。深刻な食糧難が続き、社会主義という言葉は鳴り
をひそめ、国民の多くが市場でお金を稼ぎ、日々の食料を得る生活を余儀なくさ
れるようになった。
氏も食糧確保の為に四苦八苦する日々で、“不公平な市場の有様、商い人との値段
交渉の様子、特権階級と一部軍人の横暴ぶり” 等、この時期の話は特に興味深い。
ちなみにこの時北朝鮮は、国際社会の支援で危機を乗り越えている。
以下に本書の中で印象深かったものを、4つ抜粋。
◎人々の国への忠誠心は党に対する恐怖心だけではなく、多くの人が社会主義のユ
ートピア的な理想像を、人類が目指すべき唯一の道とみなしていた。
◎子供達は幼少時から指導者の偉大さや、敵(米・日本・地主・資本家)のことを学
び、小学生になると朝鮮少年団に入団。組織による思想生活は老いて死ぬ迄続く。
◎個々の職業選択は党組織によって決定され、そこに本人の意思は反映されない。
◎平壌に移り住みたいという希望は、中央にある機関・企業所に配置されない限り、
到底叶わないものだった。
2002年、拉致被害者5人の一時帰国は、私も衝撃の思いでテレビ画面を眺めたのを
憶えている。北朝鮮は彼らを一旦は平壌にもどせと要求してきたが、日本政府の判
断の下、引き続き日本に残る事に。子供達の帰国が実現したのは、それから1年半
後のことだった。
拉致被害者の彼らが子供を置いて日本を出る時、また日本政府の判断を信じて子供
達の帰国を委ねる決断をした時…その時の葛藤と辛さはどれ程のものだったろう。
彼らの子供達がやっと日本の土を踏んだ時は、日本中が安堵し心から祝福した。
氏は、翻訳家、新潟産業大学経済学部教授として、今も拉致被害者救出の為に尽力
している。