[内容]
明治維新の時に会津藩士たちが受けた、想像を絶する辛苦が綴られている。
副題は『会津人柴五郎の遺書』
[感想]
柴五郎は1859年に会津藩士の5男として生まれ、逆境の中大変な努力を重ねて
陸軍大将にまでなった人物(87歳没)。
本書は第一部『柴五郎の遺書』、第二部『柴五郎翁とその時代』から成り
第二部は手記を託された著者が、本人から直接補足的説明を聞き取って整理し
たもので、当時の背景が詳しく述べられており興味深い内容となっている。
動乱の幕末期、会津藩は倒幕に反対する勢力の中心(=朝敵)と見なされていた。
明治元年、柴五郎(以下“氏”)が10歳の時に会津は官軍に攻め込まれ、迎え撃つ
も落城。祖母、母、姉妹は、攻撃が始まってすぐに自刃している。
この時一族の多くが戦いで死に、白虎隊などはまだ16~17才の若さだった。
会津の民は薩長を歓迎したと言われているがそれは事実ではなく、彼らは百姓
や町民にも容赦なかったという。
氏はこの時の無念の思いを「朝敵よ賊軍よと汚名を着せられ、会津藩民言語に
絶する狼藉を被りたること、脳裏に刻まれて消えず」と記しており、彼らの
受けた仕打ちは涙なしには読めない。
生き残った者は敗戦後に俘虜となり、氏も父や兄らと共に下北半島の辺地で極寒
の中で飢えと闘う生活を送る。本書に載っている当時の家の写真を見ると、百姓
も住まぬようなボロ小屋で、氏はこの時の生活ぶりを「面やつれ、蓬髪垂れ、手
足あれて、オシメ粥をすする。まことに顧みて乞食の一家成なり。」と書いている。
その後は東京で一人、下男、給仕、下僕などの仕事をして食いつなぎ、金銭的に
も精神的にも厳しい生活が続くが、その中でも次のエピソードなどは、氏の当時
の状況と心情がよく表れていると思う。
“料亭まで主人のお供をした時のこと。詰め所で待っていると部屋に呼ばれ、芸妓
を侍らせた満座の席で「この小僧は会津武士らの子でな」と肉親の犠牲を宴席の
座興にされ、屈辱のなか煮えたぎる思いで耐えていた。”
氏を心にかけてくれた人達もおり、15歳で陸軍幼年学校の試験を受けて合格。
「わが生涯最良の日」の言葉通り、これが氏の人生の大きな分かれ道となり
その後軍人としての生涯を送ることになる。
本書では氏のその後の歩みや、父親や兄達についても詳しく書かれている。
下記は大久保利通と西郷隆盛の死に対して、柴五郎が語った思いだ。
「余は、この両雄維新のさいに相謀りて武装蜂起を主張し『天下の耳目を惹か
ざれば大事成らず』として会津を血祭りにあげたる元凶なれば‐(略)‐結局
自らの専横、暴走の結果なりとして一片の同情も湧かず、両雄非業の最期を
遂げたるを当然の帰結なりと断じて喜べり。」
著者は柴五郎の遺文に初めて接した時のことを「呆然としたというより、襟を
正したというほうが適切かもしれない。」「いったい、歴史というものは誰が演
じ、誰が作ったものであろうか。」と書いている。
著者が本書を「会津戦争の裏歴史」と言い表したように、その中身は専門家だ
けではなく、私のように歴史に詳しくはない一介の庶民にとっても、引き込ま
れる内容だった。