私が中学生の時、同居の祖父(72歳)が亡くなった。
父が葬儀の時にポツリ「酷い父親だったな~。」と呟いたという。
祖父は若い時北海道に職を得、妻と3人の子を残して単身で青森を出た。
その後音信が途絶えたため、心配した祖母はまだ赤ん坊だった息子(私の父)を
おんぶして、はるばる北海道まで祖父に会いに行った。
しかしそこで目にしたのは、祖父が女の人(М)とちゃぶ台で向かい合って、
夫婦のように仲睦まじく食事をしている姿だった。
祖父が自分に会いに来た妻を歓迎することは無く、冷たくあしらわれた祖母は
やむなく近くにボロ部屋を借り、土方をして子供達を育てた。
極貧だが、赤ん坊のヨダレかけだけはいつもきれいだったそうで、後に知り合
いの女性が「あれはイヨさんの意地だったんだろうね。」と話していたという。
ある日小学生になった父が、学校で必要なお金を祖父に貰いに行ったところ、
「そんな金は無い。」と言われて泣きながら帰った…という話は、最近妹から
聞いて初めて知った。
何があったのか祖父は再び妻子と暮らすようになったが、Мも傍に住まわせ
たため、周りにはМの方が奥さんだと勘違いする人もいたという。
ちなみに母は結婚後に初めて妾の存在を知り、「なんてところに嫁入りしてしま
ったんだろう…。」と思ったそうだ。
Мに子供はおらず、祖母にはきちんと両手をついて挨拶していたとか。
昔、母に聞いてみたことがある。お婆ちゃんてどんな人だったの?
意外にも返って来たのは「おとなしい~人だった。」という言葉。
祖母はきっと、子供のために全てを胸に納めて生きてきたのだろう。
祖母は私の長姉が産まれる少し前に54歳で亡くなったのだが、Мも祖母の
死後、時を経ずして亡くなったそうで、その時父の姉が「Мはバチが当たっ
たんだ。」と言ったと聞いた。
私が60代半ばの時のこと。祝い事があって初めて北海道の長姉の家に泊まり
家族アルバムを見せてもらっていたところ、1枚のセピア色した集合写真が
現れた。そこには祖父と仕事関係の人達そしてМも写っていて、初めて見る
その人は少し大柄でふっくらとしていて、優しそうな顔で微笑んでいた。
写真にはまだ子供だった父も写っており、姉の説明でその横に立っているのが
祖母だと知った時、私は胸をつかれた。
小柄な祖母は痩せているだけではなく、みすぼらしく老け込んで、母親という
よりはまるで“婆や”だった。
どれ程の苦労をしたらこんな風貌になってしまうのだろう。これでは知らない人
がМの方を奥さんだと思うのは無理もない。私は涙が出そうになり、同時に祖父
とМに強い怒りが湧いた。よくも私のお婆ちゃんをこんな目にあわせたな…と。
父は結婚する前はよく、裁縫をする白内障の母親の為に、毎朝何本もの針に糸を
通してあげてから仕事に出かけていたという。
そんな母親思いの父が祖父と談笑する姿を、私が一度も見たことが無いのは当然
だろう。祖父の仕事を継いだとはいえ、むしろ父はよくそんな父親と一緒に暮ら
し最期まで面倒をみてあげたものだと思う。
昔と違い今は女性の働く職場は沢山あるが、離婚後に養育費を払わない男性は相
変わらず少なくないようで、経済的に困窮している母子家庭の割合は高い。
だが、己の所業はいつか何らかの形で跳ね返ってくる。それは今生で起きるとは
限らない。祖父とМもあの世で、自分達の罪を悔いただろうか…。