今日は母の子供時代の話を少し。母は大正生まれで、10人兄弟の上から
4番目。下6人は異母弟妹だ。実母は、母が生後2カ月の時にスペイン風邪
で亡くなり、幼少時は近くの村に里子に出されていた。
実家は農家で、小学校の卒業を待たず紡績工場に年季奉公に出された為、雑誌
や新聞は普通に読んでいたが、母の書く文字は自称“金釘流”だった。
奉公の間は僅かばかりのお給金が出ていて、それを親に送金していたが、全部
きれいに使われてしまって、何も残っていなかったという。
10年近い年季が明けた時、他の女工にはまとまったお給金が渡されてるのに、
母には1銭も無かった。その時に初めて、自分が奉公に出されたのは長姉の再婚
の支度金を作る為で、父親が前借金として全額受け取っていたことを知った。
それでもやっと家に帰れると喜んだが、実家に母の居場所はなく、物置のよう
な部屋でボロ布団をあてがわれた時は、心底「早くこの家を出たい。」と思った
そうだ。母が嫁ぐ時は、それなりの支度をしてくれたらしいが、父親が病気で
亡くなった時は一粒の涙も出なかったという。
ここからは妹から聞いた話だ。母が亡くなる7~8年前に、長姉が東北から初め
て母に会いに来た。母とは親子ほど年が離れており、年齢は70代半ばくらい。
その人が畳に両手をついて「申し訳ありませんでした。」と、頭を下げたそうだ。
しかし母はそれを止め、姉と会えたことを喜び、土産に着物まで持たせたという。
正直言うとこの話を聞いた時は「何を今更」と思い、母のお人好しぶりが歯がゆ
かった。まあ私がとやかく言うことではないし、今は伯母の気持ちも汲み取って
あげなきゃいけないと思ってはいるが…。
おしんも子供時代は可哀想だったが、母よりは幸せだったかも知れない。